鈍行列車が運ぶ旅 4
10日前になりましたが、3度目のJR列車のプチ旅。夏の青空をしかと
目に焼き付けられるのは貴重な時間です。
ここは吉野ヶ里公園駅です。
話題になった吉野ヶ里遺跡が公園として整備されています。
サウナのように暑い日差しも平気です。(ちょっとの間は)^o^;
肥前山口駅で乗り時間換え待ちです。駅を出ると小さい山の途中に
真っ白な観音様が見えました。 お堂の屋根の上に座っておられます。
11月に開かれています。 景色は痛いくらいに何もない平野だと
いう印象をどうしても抱くのはなんでだろう・・。
出発から2時間ほどでたどりつきました。武雄温泉。
武雄温泉駅で下車して、あるくこと7,8分のところに
この話題の楼門があります。今は改装中ですっぽりと覆いに
包まれているので、見るのは秋までお預けでした。
1914年(大正3年)上棟の楼門が温泉街のシンボルである。門を入ると、資料館である武雄温泉新館と共同浴場及び貸切風呂がある。楼門と武雄温泉新館は辰野金吾(佐賀県出身)の設計になるもので、国の重要文化財に指定されている。新館は1973年(昭和48年)までは共同浴場であった。2003年(平成15年)3月に新館が復原され、楼門とともに2005年(平成17年)7月22日に重要文化財に指定された。
引用 Wikipedia
ちょっと驚くようなりっぱな共同浴場です。 大正時代から一般の人が、
この建物で入浴を楽しんだのですね。
開湯は約1200年前である。伝説によると神功皇后が凱旋の途、太刀の柄(つか)で岩を一突きしたところ、たちどころに湯が湧き出たと言われており、よって昔は柄崎温泉と呼ばれていた。また、蓬莱山の麓に湧くことから蓬莱泉とも呼ばれていたという。 また、嬉野と同じく、この武雄も肥前国風土記にその名が登場する。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、負傷兵士の湯治場として利用したといわれる。
江戸時代は街道の宿場町としても栄え、幕末には長崎を往来した勤皇志士や文人らが盛んにこの湯を訪れたという。著名な人物を挙げると、佐賀藩城主の鍋島氏、江戸時代初期には伊達政宗、宮本武蔵が、また幕末にはシーボルト、吉田松陰らが入湯したといわれる。
戦後は嬉野温泉と共に歓楽温泉としての道を進んだこともあったが、今日ではその傾向は薄い。その落ち着いた静かな佇まいから、お忍びで訪れる芸能人などの著名人も多いと言われている。最近は観光地としての開発が盛んで、様々な観光施設やモニュメントが設けられている。
引用 Wikipeda
手前にある共同浴場はレトロな作りと整備された清潔感が心地よかった。
とても熱い温度ですが、温泉水はなぜか皮膚に負担を感じませんね。
真夏のかんかん暑い時に熱い温泉も最高です!
武雄市は、市の図書館をTUTAYAによる運営にゆだねた、あらたな
図書館のロールモデルを表明しています。 どんな感じか行って
見たいと思っていますが、市民との間にはすこし温度差も
あって現実問題は色々難しいんだなと知りました。
てっぺんがごつごつ岩の山が異様な感じでした。すぐ手が届きそうな
山でした。散策コースがあったので、次回は辿ってみようと思います。
次は早岐(はいき)という駅まで行って、大村線に乗り換えです。
シーサイドライナーという列車というより船のような名前の電車に
乗って、一気に長崎駅まで向かいます。
名前どおりに線路の脇に接近した大村湾の水面をしばらく眺めながら
列車は走ります。
空の雲に寝そべっている女性のように見えます。
かもめがたくさん休憩中
鏡のように光る水面。
段々畑が見えてきました。みかんかな、びわかな・・。
特急しろいかもめと快速シーサイドライナーが並んでいます。
長崎駅のホームを飾る後朱印船の模型です。三菱重工長崎造船所が
製作したそうです。
駅前の大きな陸橋。路面電車をはさんで、かなりの距離で道を渡って
いけます。
小高い丘に信じられないほどの急な斜面でも住宅が建っている長崎の町。
夜景がきれいなはずです。 たくさんの顔をもつ長崎。独特のスポット
だなと思います。 中国文化とのながり、鎖国時代の出島、蘭学、キリシタンと
その弾圧の歴史。近代の夜明けの時代、坂本竜馬の海援隊、亀山社中、
政商岩崎弥太郎の築いた三菱の歴史。
それから、原爆投下の悲劇の地としての平和への誓いの場。
いろんなテーマがてんこ盛りに狭い土地に密集しているのだから。
それらの発するオーラがあなどれません。
ふつうにこんな階段を毎日通うのでしょうかね。
大きな建物でした。入り口で番号プレートをもらい首にかけます。
わずかしかない貴重な戦艦大和の写真がありました。
これは戦艦武蔵が出航の際にロープを切った斧です。
長崎ちゃんぽんを食べて帰りました。
かもめには乗らないけど、撮らせてね。\\^^:
おしまいです。旅のお付き合いありがとうございました~。^o^/