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神社へ

皆様明けましておめでとうございます♪~~

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夕方近くになって裏の神社へ新年のごあいさつへ

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根元が一つできれいに3つに分かれた杉の木

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その横には弥生時代の遺跡が

 

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ブリジストン創業者の石橋正二郎さんが神社に多額の寄付を
した記念に立てられた碑と杉の植樹

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神社横の家のお庭には蠟梅が満開でした。ほんとにロウで
できたような花びらです。

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参道から道へ出たらちょうど こんなものがいました。

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近所の家々を回って、こうして口を頭に向けてパクパク。

このあたりは昔 久留米のお殿様のご家老たちの家が並んでいました。
その久留米城は、箒木蓬生氏の小説「水神」にも登場します。小さい頃から
なじみの場所です。すぐそばは大きな医大病院と大学のグラウンドになっていて
夏の花火大会では黒山の人だかりに賑わいます。臨時のバスの数は相当なものです。

 

 ちょっとだけ足を延ばして篠山城と呼んでいるその場所へ行きました。

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左の建物はブリジストン久留米工場。
ここにある吹奏楽団は全国大会の金賞を何年も連続して受賞していて、
夏には市民コンサートで色んなジャンルのスタイルでプロ並の演奏を
堪能させてくれます。

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右が久留米医大病院です。ドクターヘリの音がたまに

空に響きます。

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城跡は有馬氏を祀る神社が建てられています。
その昔有馬藩の火消しはお江戸で評判だったといいます。

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篠山神社とよばれています。

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戦没者の追悼碑がありました。
この場所を端のほうまで隈なく歩いたのは、実は初めてでした。

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なので青木繁さん(明治時代の画家)の歌碑があったのも今日発見。

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わがくには つくしのくにや しらひわけ
ははいますくに はじおほきくに

(白日別→筑紫の国の古代の呼称)(はじ→櫨の古語)

 

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敷地の端ですぐそこは城の石垣の絶壁が控えている。
しかも高良山の方角へ向いて建てられているので、神社側からは
全く気づかれることはない。案内板をみるまでは。

”おれが死んだらここに歌碑を建ててくれ”と言い残した場所が
高良山の奥にある兜山(通称けしけしやま)でした。

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石垣の向こうには筑後川が控えています。
左へ下って川沿いを歩くと水天宮へと続きます。

水天宮由緒書き(ここが全国水天宮の始まり)

寿永四年(西暦1185年)、三月二十四日 壇ノ浦の戦の後、高倉平中宮に仕えていた官女 按察使局(あぜちのつぼね)伊勢は千歳川(現筑後川)の辺り鷺野ヶ原(さぎのがはら)に遁れ来て初めて水天宮を祀った。この頃は未だ筑肥の界も明らかでなくただ荒漠たる原野であったという。今日、川を隔てて下野村があるが、近くの鷺ヶ鼻と言う地名は当時の古名が残ったものであると言われる。

伊勢は後に剃髪して名を千代と改め、里人に請われるままに加持祈祷など行っていたが、御霊験のあらたかにして、尊崇するもの日増しに多くなり尼御前と称え慕い社名を尼御前神社と呼ばれるに至った。

その頃中納言 平 知盛卿の孫(従四位少将 平 知時の四男 右忠すけただ)肥後より千代女を訪ね来てこれを養いその後嗣とした。千代女逝去の後、里人その墓を営み松を植えて千代松明神とあがめ奉った。同女は大和国石上布留神社(現石上神宮)の神官の娘にして、墳墓は久留米市内株式会社アサヒコーポレーションの正門前に在り、奥津城祭(墓前祭)は毎年春に奉仕されている。

当宮は古来農業、漁業、航海業者間に信仰が篤いのみならず、子供の守護神、安産の神として或いは病難、火災などの除災招福の御霊験高きを以て聞こえ、畏くも明治天皇御降誕の砌、孝明天皇は当宮へ御祈誓遊ばされた。

安産にご利益があるといわれるのはこの辺りのことからか。・・正直言ってこの神社に漂う雰囲気は、安らぐ感じではないんですがね。すぐ横に大きな川、なんともいえない殺気を覚えます。まして、背景が平家の滅亡なわけで・・。嫌うわけじゃないけど、あまり喜んでいかない所でした。^^;

 

皆様幸多き年をお祈りつつ。なんか変なシメで終わります。 ありゃりゃ・・。